初金毘羅宵祭縁起
初金毘羅宵祭、奉納行列の由来
初金毘羅宵祭の由来
神岡の金毘羅祭は、神岡鉱山で栄えた神岡という街がまだ勢いのあった頃、昭和31年にはじまった。
全国の金毘羅祭や一般的な神事と比べれば*1 歴史は浅いが、それ故詳しい歴史を知ることが出来るので紹介したい。
粋を好んだ船津の旦那の思いつき


飛騨神岡の中心市街地である船津地区は、昭和9年に大火に見舞われ、川沿いの土蔵を除くその殆どを消失した。その時活躍したのが地元の消防団だ。幹部には船津本町の旦那衆達が名を連ね、それは粋を好む男たちの集まりであった。
昭和29年のある晩、神岡町消防団第1分団(船津地区、旧船津村区)の団長だった大坪酒造の先代・大坪政長氏は、懇意にしていた洞雲寺の和尚と酒を酌み交わしている時に、第1分団で火消しの本場・東京の木遣(木遣唄・江戸時代から続く、火消しの人々が歌う唄)を習うことを思い立った。
すぐさま東京へ連絡を取ったものの、当初、江戸火消の人々は東京の外に自分たちの木遣を広めることについて固辞していた。それでも引き下がることを考えなかった大坪氏は、荒垣秀雄氏ら地元出身の知識人の知恵を借りながら数回にわたって依頼を重ね、同年11月に当時江戸火消も組の組頭であった竹本金太郎氏ら江戸消防記念会の組頭・副組頭たち5名を、1週間神岡へ招くことに成功した。竹本氏は当時の火消の中でも抜群の木遣の名手であったという。
逗留の建前はなんであったろうか。彼らの滞在期間中、鉱山の迎賓館の一つであった親和荘に消防団の面々が集い、そこで江戸木遣を習うこととなった。組頭達の出番は夜に限られたが、大坪氏は彼らを手厚くもてなしたそうだ。

鐘の音に導かれた縁
さて、逗留中のある昼間のこと、竹本氏は大坪邸まで響いてくる鐘の音に惹かれ、ほど近くにある洞雲寺の境内へ足を運んだ。すると、そこには本堂と隣立して見るも立派な金毘羅堂があり、そこでは地元の檀家の人々によって金毘羅講が行われていることを知った。

洞雲寺では、昔から毎月10日に金毘羅講の法要を必ず行なってきた。水運を守護する金毘羅大権現を祀る金毘羅講が山峡の神岡で行われてきた詳しい縁起については、元々は本町のある旦那の家に金毘羅のお堂があり、それ洞雲寺に移したものであるという他は今のところ定かでないが、船津という地名から神通川、富山湾へと通じる高原川水系を使った木材や鉱石の運搬が行われていたことは想像するに難くない*2 。
水運、木材、鳶、木遣、火消……。金毘羅堂に自身が導かれたことに、竹本氏は何かしらの縁を感じたのであろうか。これをきっかけに、神岡の無火災を祈念するための大額が、この金毘羅堂に献納されることになった。
金毘羅堂への献額式:初金毘羅祭のはじまり
昭和31年1月10日午後1時、初金毘羅講の日。横約2間、縦約1間、当時の江戸消防記念会の幹部の名が彫られた欅造の大額を献納する式典が催行されることになった。神岡消防団第1分団と、当時仲のよかった旧阿曽府村区である第2分団とで、江戸木遣を歌いながら洞雲寺を目指し西里・本町通を練り歩くのだ。まず第1分団が大額を引き、第2分団は酒樽を積み上げ拵えた神輿を担いだ。また、木遣には欠かせないとして、当時花園町を中心に、町内に30軒程あった置屋の芸妓衆50余名が勢ぞろいで手古舞衣装(男装の喧嘩装束)を身に纏い、ずらりと並んで神輿を引きつ、後に従った。

その行列の華やかさが、隆盛のさ中、派手さを好んだ神岡町民の性に合ったのだろうか。翌昭和31年から、商売繁盛・家内安全を祈願する祭りとして、木遣の行列が行われた。
これが、神岡の初金毘羅祭の始まりである。歴史は浅いが、転じてやがて祭りの形を成すというのは、正真正銘の健全自然な祭りのおこりと言えるだろう。